マレーシア人旅行者だけで、年間61.5億円という試算

2025年、訪日マレーシア人数は63.7万人と過去最高を更新しました。人口の6割超がムスリムであるこの国から、これほど多くの旅行者が日本を訪れている。しかしながら、その旅の最中に彼らの少なくない数が、実は「日本での食事」を半ば諦めているとしたら、どうでしょうか。

ムスリム旅行者が「ツアーで提供される食事以外は、食べられそうな材料のおにぎりや、自国から持参した食べ物を食べて過ごしている」という例は、業界ではよく知られた話です。ハラール食を探す手間や不安から、旅行者自身が食事を「持参食」で済ませてしまう。これは、日本の飲食店にとって、本来得られたはずの売上が静かに失われていることを意味します。

そこで私たちフードダイバーシティ株式会社は、この「持参食による代替」を経済的な機会損失として定量化してみました。本稿では、①なぜ「持参食」が経済的損失なのか、②61.5億円という数字の内訳、③前提を変えると、どうなるか、の3点を整理し、この見えない損失の規模を明らかにします。

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なぜ「持参食」が経済的損失なのか

ハラール食を提供する飲食店が見つからない。あるいは見つかったとしても、それが本当に安心して食べられるものなのか確信が持てない。そうした不安に直面したムスリム旅行者が選ぶ現実的な解決策のひとつが、「自国から食べ物を持参する」という行動です。

旅行者本人にとっては、これは不安を避けるための合理的な選択です。しかし日本の飲食業界の視点に立てば、本来その旅行者が地元のレストランや売店で使ったはずの食費が、まるごと発生しないまま旅が終わってしまうことを意味します。しかもこの現象は、観光庁の資料が示すとおり、特定の国籍に限った話ではありません。

この機会損失は飲食店だけの問題ではありません。ハラール食材を仕入れる卸売業者、対応メニューを開発する食品メーカー、そしてそれらの情報を旅行者に届ける宿泊施設やOTAまで、川上から川下まで広く関わるテーマです。そこで私たちは、この機会損失を次の5つの要素を積み上げる形で試算しました。

  • 訪日者数:2025年の訪日マレーシア人数、63.7万人(過去最高)1)。
  • ムスリム比率:マレーシアの人口に占めるムスリムの比率、63.5%。訪日客の宗教構成を示す直接統計は存在しないため、国民全体の比率を代理指標として使用しました 2)。
  • 総食事回数:観光庁調査による平均泊数9.0泊に到着・出発日を加味した10.0日に、1日3食を乗じた30.0回 3)。
  • 持参食で代替した回数:「1日1回を持参食で済ませた」と仮定した10.0回。
  • 機会損失した食費:④に、1人あたり飲食費から逆算した1食あたりの単価を乗じて算出。

61.5億円という数字の内訳

まず、ムスリム訪日客数は、63.7万人×63.5%=404,495人と推定されます。この人たちが滞在中に代替(機会損失)した食事回数は、404,495人×10.0回/人=404万回にのぼります。

経済損失試算の全体像(訪日者数からムスリム訪日客数、機会損失食事回数から試算)

平均食事単価は、観光庁調査による1人あたり飲食費(滞在全期間)45,649円を、1人あたり総食事回数30.0回で除することで、45,649円÷30.0回=1,522円/食と逆算されます。以上を掛け合わせると、経済損失額は404万回×1,522円/食=61億5,000万円、マレーシア一市場だけで年間約61.5億円という規模になります。

これは、決して大きすぎる仮定を積み重ねた数字ではありません。「1日3食のうち1食だけ」を持参食に置き換えたと仮定した、いわば控えめな試算です。それでもなお、60億円を超える規模の売上が、日本の飲食業界からこぼれ落ちている可能性があるのです。

しかも、この試算にはもう一つ控えめな要素があります。分母として用いた「1人あたり飲食費」自体が、すでにハラール食を探す難しさゆえに支出を切り詰めた後の実績値である可能性があるのです。もしそうだとすれば、本来の機会損失はこの61.5億円をさらに上回っていることになります。

前提を変えると、どうなるか

この試算は「ムスリム比率」と「持参食で代替する頻度」という2つの仮定に、結果が大きく左右されます。それぞれ保守的なケースと積極的なケースを置いて幅を確認したのが、次のグラフです。

前提条件別の経済損失額(感度分析)

ムスリム比率を55%〜70%の範囲で動かし、持参食の頻度を1日1食・1日2食で比較すると、経済損失額は年間53億円から136億円までのレンジに収まります。どの前提を採っても、日本の飲食業・観光業にとって看過できない規模の機会損失が生じている可能性が示唆されます。

そして、これはあくまでマレーシア一市場だけの試算です。私たちは同じ手法を、シンガポールや香港、中国、英国、フランスなど、ムスリム多数派国に限らない主要23市場にまで広げて試算を行いました。その結果、訪日ムスリム旅行者全体では、年間で約278.7億円という規模に達することも見えてきています。その内容は、別の機会にご紹介したいと思います。

「見えない損失」を、見える機会に

持参食という行動そのものを責めることはできません。旅行者からすれば、限られた情報の中で、安心して過ごすための最善の選択をしているだけです。問題は、その選択をさせてしまっている、日本側の受け入れ環境と情報発信の不足にあります。

裏を返せば、この61.5億円は「受け入れ環境を整備すれば、顕在化しうる市場」の規模でもあります。ハラール食の情報を分かりやすく開示すること、どこまで対応しているのかを開示して選択肢を用意すること。決して大がかりな設備投資からではなく、「今ある配慮を、きちんと伝える」ことから、この機会損失は着実に取り戻せるはずです。

訪日マレーシア人数が過去最高を更新し続ける今こそ、この見えない損失に向き合う好機です。

*1)「2025年の訪日マレーシア人数は63.7万人、消費額は1,406億円でともに過去最高」訪日ラボ 2026/5/8
*2)Department of Statistics Malaysia「Population and Housing Census of Malaysia 2020」
*3)観光庁「訪日外国人の消費動向 インバウンド消費動向調査結果及び分析 2024年年次報告書」